小気味よい包丁の音が夜の調理場に響きます。
「エイタスー、もう切り終わりました?」
エルフのように愛らしい声が、歌うように問います。
「はい姫、こっちは終わりましたよ。」
「湯せんかけといて下さいね。ミーティアはこっちに手をとられているのです。」
「じゃあ、生クリームは僕が泡立てておきますね。」
黒髪の青年は、そう言って泡だて器を手に取りました。
少女のように優しげな顔だちをしているのに、その手も、そしてその手つきも、思いのほか力強く、クリームはみるみる泡だてられていきます。
「あ、エイタスー、オーブンを見てくれませんこと。そろそろ焼き過ぎてしまったかも。」
「はいはい…あー…セーフ、まだ大丈夫ですよ、姫。」
青年の言葉に、青年と同じ黒髪をしたミーティア姫は、可愛らしい安堵のため息をもらしました。
広いはずの、このトロデーン城の調理場も、あたりを埋め尽くさんばかりに広げられたチョコの型やら、ケーキやら、未加工のチョコの塊やらに占領され、なんだか狭く見えます。
「ふう…」
ミーティア姫はため息を上げます。
「やっぱり、一年もお料理をしないと勝手が違いますわ。朝までに完成するかしら?」
姫の言葉に、エイタスは黙って微笑みます。
「…いぢわる…何も言ってくれないのですか、エイタス。」
その言葉に、エイタスは答えました。
「だって姫。姫は毎年、いろいろ言ったってきちんと完成させてきたじゃないですか。」
そして、にっこり微笑みました。
「大丈夫、今年だってきちんと完成しますよ。」
ミーティア姫は、それに“しっぺ返し”するように、同じくにっこりと微笑みました。
「そうですわね、今までだって一日で城中のみんなのチョコレートを一晩で完成させたんだもの。いくら今年は旅の間にお知り合いが増えて、そのみんなにチョコを贈る必要があるからって、そんなに心配する必要はありませんね。なにせ今年は一晩ではなく、一日、このお城の調理場を借りることが出来たし、ミーティアも十八になったし、何より…エイタスがいるもの。」
ミーティア姫は毎年、「この一年間、お世話になった人たちにバレンタインにはチョコレートを手作りで贈る」という自分目標がありました。
ええ、この目標を立てたのはいつだったでしょうか…ミーティア姫の優しいお母さまが亡くなって、そしてエイタスがお城に来た頃くらいでしょうか。
ともかく、この目標のために彼女は毎年、この前日になると調理場を借り受け、エイタスを助手に“じごくのチョコ作り”に精を出して来たのでした。
去年は例の杖のせいでチョコ作りを断念することになってしまったものの、その分、お城の外にも知り合いが増えた彼女です…尤も、馬であった彼女を、トロデーンの姫君と認識した人間がどれだけいたかは謎ですが…今年のチョコの目標作成数は、例年の軽く倍となっていました。
でも
「ミーティアの頼りになるエイタスがいてくれれば、絶対に間に合う…そうですよね?」
言いながらもミーティアは、大きなボールを軽々と抱えて、超高速でクリームを泡だてています。
父トロデ王と錬金釜を乗せた重い馬車を曳いて、全世界を駆け回ったことは、か弱い姫君の彼女の腕力を、超人レベルまで強化していたのです。
「そんなに期待されると困りますよ。」
穏やかに返すエイタスの、チョコを刻む包丁さばきも、さすが剣スキル100の剣神だけあって、常人では、気付いたらチョコが木端微塵にされたようにしか見えませんでした。
確かに、これだけの手腕をもってしてなら、一見、狂気の沙汰に見えるこの目標も、達成可能に思えますね。
チョコケーキ、ブラウニー、トリュフ、ガトーショコラ…
ともかく、あらゆる種類のチョコがお城の調理場にひしめいています。
凝り性のミーティア姫は、いくら修羅場のチョコ作りとはいえ、みんなに同じものを贈るような手抜きはしません。
一人一人のことを考え、心をこめてチョコを作るのです。
そんなミーティア姫の事をエイタスはもちろん好きなのですが、毎年手伝わせられる身として、そこにいくばくかの公言出来かねる思いが入り込んでいることも、まあ否めませんが。
「ふう…これでオークニスのグラッドさんまでの分は終わりましたね。たくさんのヌーク草を入れたホットチョコ、きっと喜んでくれるわね。」
可愛い白いおでこに汗をにじませて、ミーティア姫は言いました。
「はい、姫。これが三角谷のギガンテスの分のチョコケーキ用のチョコみじん切りですよ。」
小麦の大袋一杯分は雄にあるチョコをみじん切りを笑顔で差し出すエイタスに、
「じゃあ、湯せんにかけてくださいね。ミーティアはこちらの準備をします。」
ミーティア姫は風呂桶ほどの大きさのあるボールに、大桶に入ったミルクをなみなみと注ぎながら答えました。
手元の「贈る人リスト」を見て、ハッと気づいたように姫は言いました。
「あら大変です、エイタス。一人忘れていましたわ。」
「?誰のことですか。」
エイタスの問いに、ミーティア姫は少し怒ったように言いました。
「まあエイタス、そんな、ひどい。忘れてあげては可哀そうよ。」
そう言われてエイタスは、旅の間に会った人たちを一人一人思い返してみましたが、やはり心当たりはありません。
ですが、ミーティア姫はますます可愛く拗ねてしまいます。
「すいません、姫、降参です。ド忘れしてしまったようだから、教えて下さい。」
「エイタスの忘れんぼさん。」
ミーティア姫は、こつん、と可愛らしくエイタスのおデコを叩きました。
「ミーティアをよぉく見てみなさい。ミーティアの瞳の色に、なにか覚えはなくて?」
ですが、エイタスは何も言いません。
とうとうしびれを切らしたミーティアは言いました。
「エイタスの困ったさん、マルチェロさんのことを忘れては、可哀そうでしょう?」
「…マルチェロさん…ですか?」
エイタスは、姫のとても美しく澄んだ“緑の”瞳を見て、「と、ある人物」の事をいやいやながら思い出してはいましたが、その人物のことは頭から追い払っていました。
なぜって、その人は確かに「知り合い」ではありますが、まず間違いなく「お世話になった人」の範疇には入らなかったからです。
まあ、その人お得意の“イヤミ”で言えば、確かに自分たちにとってあの人は「お世話になった人」ではありましょう。
うっかり無実の罪で拷問にかけられ、いらない弟を押し付けられ、旅の先々で会いたくもないのに会ってしまった上にイヤミを言われ、そしてこの世の地獄に叩き落とされ、しまいにはチョクで殺されかけ…
ですが、さすがお姫様というべきか、ミーティア姫の考えは違ったようです。
「マルチェロさんは、どんなチョコがお好きだと思う、エイタス?」
「考えたこともありません。」
「んー…甘いものはお好きなのかしら。」
「きっとそれどころじゃないと思います、なにせ、法王庁に追われていますから。」
「まあ、だったらきっとお疲れで、甘いものが食べたいはずですね。」
「…」
エイタスは、幼馴染とはいえ、ミーティア姫についていけないものを感じました。
結局、エイタスの
「作るのはいいけれど、どこにいるか分からないから、チョコが悪くなってしまうと思いますよ。」
という言葉を受けて、
「なら、腐りにくいようにクリームは控えめでその代わりお砂糖をたっぷり入れましょう。」
と、お砂糖がたっぷり入れられ、ついでに
「やっぱりマルチェロさんは青がお好きなのでしょうね。」
と、紺地にスカイブルーのリボンでトッピングされた、とても可愛いチョコレートのプレゼントが出来上がりました。
「喜んで下さるかしら。」
姫の言葉に、エイタスは微笑みの杖で殴られたように、にっこり微笑みました。
そして思いました。
(とりあえず、ククールにあげよう。彼がきっと何とかしてくれるだろうし。)
朝日がキラキラと差し込みます。
「終了…」
さすがにぐったりと、二人とも倒れこみました。
「何とか…間に合いましたわね。後は配るだけです。」
ミーティアの言葉に、エイタスはこの後、寝る間もなく世界中をルーラで飛び回ってチョコを配らねばならない労苦に、クリスマスの聖者の労苦を重ねて、うんざりしましたが、顔には出しませんでした。
このままなら眠りこんでしまいそうな疲労の中、
(絶対にククールに手伝ってもらわなきゃ僕は死ぬ!!)
と夢うつつで思うエイタスに、
「ね、エイタス。肝心な事を忘れていませんこと?」
ミーティアが声をかけました。
「…」
まさかラプソーンへのチョコを忘れていたとか言いませんよね、姫。きっとあの人…暗黒神だから人じゃないけど…メタボとかで悩んでるから、あげない方が親切だとおもいますよ。
そんな考えが頭を巡りながら、それでもミーティアの方を向くエイタス。
ちゅっ
チョコの味が、エイタスの唇に移りました。
「毎年、エイタスにはいっちばん最初にチョコを渡していますでしょ?」
ミーティア姫は言いました。
「ミーティアの一番特別なチョコです、受け取ってくれてありがとう。」
エイタスは、姫の瞳をじっと覗き込みました。
きらきらした朝の光が、重なり合った二人の顔を照らしました。
そして、それをこっそりと覗く、小さいけれど真ん丸い、ちょっと不安げな瞳もありましたとさ。
二月十四日
サザンビーク城に、銀髪の青年から
「チーっス、赤い美青年宅急便でーす。」
という言葉と共に届けられたトロデーンからのチョコには、女の子の可愛らしい文字で
栄養満点
と書かれていました。
サザンビークの大臣はそれを見て、これはクラビウス王への贈り物で、「お忙しすぎてお食事の間もなさそうな王さまへ」という気遣いなのか、それともチャゴス王子への「これでもお召しになって、メタボでお死に遊ばせ」という慇懃な恐喝なのか判断しかね、ひたすらチョコを持ったまま部屋をうろうろしていましたとさ。
終
2008/3/9
元拍手話。
マルチェロとミーティアの共通点は、黒髪と緑眼とやっぱあのデコ。なので、きっと電波系なトコも共通していると思いました。
いっそ、「生き別れのお兄さん」とかだったら面白いとも思いましたが、だとするとトロデ王の息子になってしまう…
いくら「実は王族」はDQの基本とは言え、それは主人公の特権だからなあ。それに、あのトロデ王にあんな息子がいたら王が可哀想だ…
というわけで、他人の空似ということにしておきます。つーか、なによりそれだったら、ククールとの異母兄弟確執が成り立たないじゃん。
あ、こんなのどうだろう?
あの兄弟の外道な父親が、まだ王妃になる前の姫母に無理やり産ませたのがマルチェロで、結局その子はメイドの子ということにして屋敷に引き取られ、深く傷ついた姫母を(事情は知らずに?)心から愛して王妃としたのがトロデ王。だからマルチェロはククールの異母兄弟には違いないけど、ミーティアの異父兄でもある
…って、さすがに妄想しすぎかな?
いや、このバレンタイン話にはまったく関係のないお話でした。