風は相変わらず、
そよ
とも吹かない。
必死で帆の角度を調節しようとしていたギャビンも、とうとうあきらめて船倉に入っちまった。
「凪だ。」
ゲオルクが言わずもがなの事実をつぶやいたのが起爆剤になって、サルヴァドルが叫んだ。
「ちっとも動かないじゃないかっ!!」
そりゃそうだろう、凪なんだからさ。
「なんなんだ!もう何日もコレじゃないかっ!!全然、オレの船が動かないぞ!!」
「提督。仕方ねえですぜ、凪なんですから。」
「なんでこんなところで凪に遭うんだ!!」
サルヴァドルの言ってるのは、どっからどう見ても、ただの八つ当たりだ。
潮の流れも、風も、船乗りの思う通りには決して動いてくれやしないのが、海ってもんだ。
もちろんサルヴァドルだって、そんなことは百も承知だ。
「提督、そんなにお怒りにならねえで下せえよ。」
ホーレスのオッサンが、なんとかなだめようとして、逆にサルヴァドルの怒りに油を注いでるのが、ハタ目からもよくわかる。
「うるさいぞ、ホーレス!!オレは別に怒ってなんかいないんだからなっ!!」
ま、サルヴァドルの気持ちもわかる。
これが嵐なら、まだ戦える。
勝つにせよ、負けるにせよ…ま、人が戦うには分が悪すぎる相手だが、全力で戦ってみることができる。
凪とは戦えない。
船の上のオレたちは、いつ風が吹くかとジリジリしながら、ただ待つことしか出来ない。
人生これ戦いなサルヴァドルにゃ、耐えがたい相手だ。
サルヴァドルが壮絶な八つ当たりをオッサンにし飽きただろう頃を見計らって、オレはサルヴァドルを宥めにかかった。
自分のしてるのが八つ当たりだとわかってて、そろそろなんとかしたいと思ってたサルヴァドルにゃ、渡りに船ってヤツだったろう。
あっさりとオレになだめられると、
「オレは寝るっ!!」
と、怒ってるアピールを残したまま、おとなしく船倉に入って行った。
「…」
憮然とした顔のオッサンの前を、何考えてんだか表情からはさっぱり読めねえゲオルクが通り過ぎようとする。
だが、ふと思い直したように
くるり
と向き直ると、
「…ブランデー」
と片言のように呟いて、小樽をオッサンの前に置いた。
「なんだ、ゲオルク。今日は『マリーヒェンのザワークラウト』じゃないのか?」
オッサンが?弱い笑みを浮かべると、ゲオルクは小さくうなずいて立ち去った。
黒髪を、何度もかきあげながら。
オレは、ブランデーの小樽を持ち上げた。
「差し入れとは気が利くね、ゲオルクのヤツ。いい香りだ、きっと上物だぜ、オッサン。」
いつもの、「誰がオッサンだ」がかえってこない。
「凪の時はのんびりうまい酒でも飲みながら待つのが一番なのにさ。提督もいつまでもお子ちゃまで困るね。しつけがなってないぜ、『お母さん』?」
オッサンはそれでも何も言い返してこないので、オレはちょいと、Sっ気を出したくなった。
「オッサン、あんたはいつも提督に弱すぎるぜ。あんたが何を言ったって、最終的に提督に押し切られちまう。提督だって、あんたの言うことはハナから聞く気ないしな。」
「当り前だ。俺の若はこの艦隊の提督だ。決定権はいつも若にある。」
オレはちょいとイライラしちまう。
「オッサン、あんたはウデが立つよな。正直、アルジェの旦那方と比べたって、ウデが劣ってるようには見えねえよ。」
「買いかぶりだ。」
「なのにあんたは、艦隊すら率いてない。その年でまだ提督のお守りだ。」
「いいんだ。俺は若のお守りで…」
「そういうのは、奴隷根性って言うんだぜ?海賊にゃ一番要らねえもんだ。」
オッサンは、俺の顔を見下ろしながら、
ぐるり
と首を回した。
「俺は、奴隷だ。」
「…え?」
オッサンは、オレの手からブランデーの樽を取り返した。
「呑むぞ。」
そして、手を振った。
「繰り返すが、俺は奴隷だ。」
オッサンはもう一度そう前置きして、ブランデーを飲み干した。
「俺の肌の色で一目瞭然だろうが、俺はアフリカの出だ。ガキの頃は家族と小さな村で平和に暮らしてた。ある時、俺たちの村をどこかの部族が急襲した。親父が戦っている間に、俺はお袋と山ほどいた兄弟たちと一緒に山に逃げた。が、途中ではぐれて、俺はそいつらに捕まった。俺の実の家族とはそれっきりだ。」
お袋たちは逃げのびていりゃいいんだがな。
オッサンは小さくつぶやいた。
「その部族は、奴隷商人に俺を売った。奴隷商人たちは俺をイスラムの港まで運んでいって、そこで競売にかけ、なんとスルタンの王宮に売られることに決まった。何せ俺は昔からガタイは良かったし、丈夫だった。それに…」
オッサンは、小さく笑う。
「これでも俺は、若い頃は見てくれが良かったんだ。奴隷商人たちは、果報者だって俺に言ったがな。あのまま王宮行きだったら、タマを抜かれて宦官にされてただろうさ。」
オレは、オッサンの太い声を聞く。
宦官にされちまったわけじゃあないようだ。
「王宮に買われたのに、結局どこ行きになったんだい?」
「とある、有力なベイ(君候)に見染められてな。そのままそのベイの屋敷に引き取られて、そこの若君付きの奴隷になった。」
オッサンはため息をつく。
「いいお人たちだった。ベイも、若君もな。若君は俺をほとんど友人のように扱って下さった。若君が習うものは、俺も一緒に学んだ。アラビア語も、ほんの基礎のラテン語も、学問も、音楽も…」
「ああ。」
俺は納得する。
このオッサン、海賊のくせに妙に教養高いトコがあったりするのは、そういうことだったか。
「美味いものを食って、やわらかな寝台で眠って、優雅に生きてたのさ。」
ま、結局、奴隷には違いないんだが。
オッサンはそう言ってから、でもまあ幸せだった、と付け加えた。
「若君が成人されたら、俺も奴隷から解放すると言われていた。俺は、このまま未来のベイの側近になれるんじゃないかと思って生きていたが…」
「何だい?何かしでかして、追い出されでもしたのかい?」
オッサンは、苦い表情になった。
「ベイが、スルタンに対する反逆の罪で、処刑された。」
「…」
「俺は、あんな良いお人が反逆なんて企てるとは今でも思っちゃいない。が、家族も含めて皆殺しになった。俺の目の前で…」
オッサンは、目の前でその処刑が行われているとでもいうように、大きなてのひらで目を覆った。
「俺たちみたいな奴隷は、財産として没収された。奴隷らしくおとなしく運命に従っときゃ良かったんだろうが、ついつい反抗しちまった俺は、ガレー船送りになった。」
「ガレー船かい。」
地獄よりもなお苦しい、この世の地獄の代名詞、ガレー船。
漕ぎ手は、船倉に繋がれたまま、夏も冬も、昼も夜も、ムチの音とうめき声と波の音だけが聞こえる中を、ほとんど休みなくオールを漕ぎ続けさせられる。
オッサンは、ガレー船での苦しみは「二度と経験したくねえな」と、あっさりと言い捨てた。
「それで今は海賊だって言うと、さてはオッサンの乗った船がアルジェ海賊に捕獲されたってトコかい?」
オッサンは短く、そうだ、と答える。
「そりゃ良かったねえ。」
「まあな。結果的には、そうなんだろう。」
「だってさ、ガレー船の漕ぎ手から、アルジェ海賊の王子様の養育係だぜ?大出世じゃねえか。」
オッサンは、いかつい顔のくせに穏やかに微笑んだ。
「…俺はな、つまりはそうやってずっと奴隷だった。運命が俺を押し流すままに生きていたに違いない。だからお頭も俺に若をお預けになったんだ。養育係に、独立心も野望も要らねえ。俺はただ、若に忠実であればいい。それを奴隷根性だと言うなら、言えばいい。」
オッサンの視線がオレに向いた。
オレはあわてて愛想笑いを浮かべる。
「いやなに、そんなつもりじゃなかったんだ。その…ほらアレだよ。海賊ってのはそもそも、自己顕示欲と立身欲の強え、ワガママなシロモンじゃねえか。オッサンはちいともそんな感じじゃねえから…アレだよ、謙虚だって言いたいんだよ。」
言いながら、我ながらチンケな言い訳してんなと思う。
「俺は、一個の海賊としちゃあボチボチ有能なんじゃないかって、少しばかりの自負はある。船長を任されりゃ、上手く切り回せる自信もある。だが、艦隊を一任するって言われたら、切り回せる自信はない。」
「こないだ提督が怪我してた時にゃ、あんだけいい働きしてたじゃないか。」
「それは俺が提督の代理でしかないからだ。」
オッサンは、真っ黒の目で俺を見据えた。
「俺はいつも人に従って生きてきた。奴隷ってのはそういうもんだ。良い主人に当たれば、これほど気楽な稼業もない。自分で何の決断も下さなくて済むからな。そうさ、奴隷ってのは、『判断』は下せても、『決断』は出来ねえんだ。」
オッサンは、ため息のようなおおきな息を吐いた。
「だから俺は、若の『決断』に従う。見ててハラハラはするし、もしかしたらそれが俺を死に追いやることになるかもしれんがな。」
オレは、オッサンに言う。
「あんたさ、でもそれはそれとして、自分の人生を歩もうって気はないのかい?」
オッサンは、ちっとばかし怯んだような表情になったが、何も返さなかった。
オレは、思いがけずオッサンの過去バナを聞くチャンスを得ちまったが、このまま話を長引かせると、今度はオレの話に触れられるかもしれないと考えた。
「でもよ、オッサンはいい人に当たったんだと思うぜ。提督はあんなにカワイイしよ。」
「お前、提督になんて言い草だ、オレンジ頭!」
「おっと、ようやくいつものオッサンに戻ったね。やっぱりそっちのが似合いだぜ。」
「フン…」
「ま、アルジェ海賊もオッサン…はいはい、そんな怖え顔すんなよ。ホーレスさんを拾えて儲けものだったと思うぜ。あんたのガレー船を捕まえたのは、どの旦那だったのかい?」
「さあな…昔の話すぎて忘れたよ。」
風だー!
甲板から、歓声が上がる。
「下らん話をしたな。仕事に戻るぞ、オレンジ頭。」
「ほい来た、副長。」
「奴隷ねえ…」
オレはオッサンの、広すぎる背中を見ながら思う。
オッサンは堅苦しく考えすぎだろ。
誰かについて行くって決めるのも、自由意思ってヤツじゃねえか。
誰について行くか決められるのは、オレ自身なんだからよ。
オレは、海賊王ハイレディン・レイスに忠誠と奉仕を誓い、同時に、サルヴァドル・レイスを愛している。
決めたのはオレである以上、オレはオッサンみたいに卑下なんかしない。
2012/1/3
ホーレスの過去バナ。
ホーレスの過去バナは壮大な規模で考えたのですが、結局、書いたらかなり省略版になりました。
ホーレスは、光栄・KOEIでは珍しくアフリカ系のキャラですが、過去に一切の言及がないのです。
ま、北アフリカに本拠地のある海賊に、アフリカ系がいないはずがないと思えば、当然なのですが。
ついでに。ひっそりと「心のお医者さん」本領発揮なゲオルクです。
ブランデーは4のハンブルグでの特産品なんで。
奴隷商人の国籍
戻
次
目次
大航海時代の奴隷商人と言えば、ポルトガル人が嚆矢でしょう。
最初にアフリカ航路に進出したのがポルトガルなので、地図の奴隷海岸などを拠点とし、大量に奴隷を積んでボロ儲けした…のは、一部の悪徳商人だけでなく、貴族や、時によると国王も出資していた、割と国家的なプロジェクトだったのです。
自分たちで狩り出すことをせず、彼らは敵対する部族同士の抗争を利用しました。その抗争での捕虜を、武器やガラス玉(マジで)なぞで買い上げていたのです。後には、部族同士の抗争は、ポルトガル人相手に商売するための捕虜獲得の手段にもなっていきました。
ああ、なんて酷い話。これだからキリスト教徒は…
と言いたいところですが、この手段を最初に使ったのは、ムスリムの商人たちであるようです(もともとアフリカは彼らのシマですから)。それをもっと大々的にしたのがポルトガル人をはじめとする、ヨーロッパ人たち、と。
ちなみにホーレスは、1525年時点で39歳。単純計算すると1486年生まれです。一応、ポルトガルはもうアフリカ大陸に進出しているのですが、イスラム諸国との関係を作りたかったので、彼はイスラム商人に売られた設定にしました。ついでに、「ホーレスは宦官だ」説は少し考えたのですが(ひげがないしね。筋肉は鍛えたら宦官でもついてるし、あのサルヴァドルへの溺愛は、自分がもう子孫を作れないからではと思ったのです)、あまりにホーレスが不憫になるのでやめました。
というわけでホーレスは、まだまだ自力で子孫作成可能です!!
たくさん子どもを作って、サルヴァドルを幼児返りさせたら(下の子が生まれると、上の子が赤ちゃん返りする)よいさ。