九千六百億の慙愧




慙愧(ざんき)…自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。
「毎回思ってたんだけど、“八百万”とか“二億四千万”とかの数字にはどんな意味があるの?」
という方、数字そのものにはそんなに意味はありませんが、今回の数字には珍しく意味があります。

わかった方、手をあげて、はーい。






















俺は、法王即位式に神殿の中に入る資格を得なかった。










「即位式当日は、恐れ多くも新法王に不敬を働こうとする輩も現れるかもしれませんからね。やはりトマーゾ副団長に、きちんと外を固めていただかなくては。」

アントニオは笑顔でそう言ったが、それが慰めでなく、ただの嫌がらせであることはよく分っている。



その命令を受けてから、俺にまともに話しかける騎士たちがめっきり減ったからだ。









分かっている、俺はマルチェロ団長に見捨てられたのだ。










俺は、マルチェロ団長の法王殺害を良しとせず、団長が“生きたまま”焼いて見せしめにしようとした女を、一存で首を折って先に殺した。

明敏な団長が、正面切ってではないとはいえ、こんな俺の態度に気付かない訳がない。



俺は聖堂騎士であり、しかも副団長だ。


俺は騎士誓願で、従順を誓った。

それを守れない人間は、見捨てられてしかるべきだ。













俺はそれでも、警護を統率し、マルチェロ団長の即位式が無事に行われるように心を払う。

この即位式が終わった時、俺がどうなるか。


騎士の身分剥奪で済めば、団長の慈悲の篤さに感謝せねばなるまいが、今のあの人にそんなものは期待などできまい。





俺は、用意整った神殿内に入る人々をただ、眺める。






法王の衣を身にまとい、普段に増して威風堂々たる姿のマルチェロ団長。


その手には杖が握られていても、誰も彼が暗黒神に操られているなどとは思わないだろう、自信に満ちた姿。



いや、彼の手にする杖が本当に暗黒神を閉じ込めているかなどと、誰も知らないのだ。

もちろん、俺も。





通り過ぎる者のほとんどは、あえて俺と眼を合わせようとはしなかったが、グリエルモだけは


ちら

と俺を見、何か言いたそうにしたが、やはり何も言わずに、でも少しだけ頭を下げて通り過ぎた。



ああ、あいつはいい奴なんだ。

マルチェロ団長が好きすぎて、よく妙な発言だの行動だのをしてしまうが、根は良識ある善人だ。

だから、何も言わずにここを通り過ぎるのが忍びなかったんだろう。










そして、エステバンの姿が見えた。


俺は、今さらとは思いながら、彼の反応を窺う。










俺は、彼に声をかけたい衝動に駆られた。

でも、その衝動を押し殺した。



エステバンが見ているのは、今はただ、マルチェロ団長だけ。

















俺が焼いたのは、彼の馴染みの女性だったのだろう。


もしかしたら、ソフィーという名の彼女は、彼の恋人か何かであったのかもしれない。


俺は知らなかった。

でも、そんなことは言い訳にもならない。



マルチェロ団長に、彼女が魔女ではないと訴え続け、しまいには剣まで抜かんとした彼を、俺は殴り倒して止めた。

マルチェロ団長に殺されたくなかった、その気持ちは本当だ。


俺の責任で預かり、そしてソフィーが処刑された場所に連れて行くと、エステバンは狂ったように地面を掘り、そして黒く焦げたペンダント状のものを掘り出した。

おそらくそれは、彼女の形見の品だったのだろう。


エステバンは涙枯れるまで、それを抱きしめて泣き、そしてついに涙が枯れ果てたとき、エステバンは俺を見上げて、睨み付けたのだ。





「…分かってたんだろ?トマーゾっ!!てめェなら分かってたんだろっ!?」

俺はエステバンのその問いに、ただ無言だった。

「ソフィーを焼いた責任者はてめェだっ!!だがよ、てめェなら分かってたハズだっ!!ソフィーは魔女じゃねェってっ!!分かってて焼いたのかよっ!?」


分かっていた。

俺は少なくとも焼かれる直前では、彼女が魔女でないと知っていたのだ。


エステバンは叫んだ。


「焼けって言われたから焼いたのかっ!?あいつの…マルチェロの命令だから焼いたのかっ!?」

そうだ、としか答えられなかった。

でも、答えられなかった。エステバンはなおも問い詰め、とうとう俺は、多分、蚊の鳴くような声でだったのだろう、答えた。





「聖堂騎士は、騎士誓願の際に、従順を誓っている。だから、マイエラ修道院長の命に従う…」





返ってきたのは、鋭い反論。





「あいつの命令は、そこまで絶対的に正しいのかよっ!?」
















分かってる、あの人の命令は間違っている。

俺は彼女を焼くべきではなかった、身を挺してでも守るべきだった。

だって俺は騎士だから、いや、その前に良心ある人の子だから。



だが、俺はエステバンのことばに、怒りを感じたのだ。

俺を責めるその言葉に、怒りを感じたのだ。



マルチェロ団長が法王を弑逆した時、彼はすぐにそれを肯定したではないかと。

前の法王も、よしんば法王でなかったとしても、力弱い老人に過ぎなかったではないか。

そんな老人を無残にも殺したことは肯定出来て、殺されたのが自分の女なら許せないということなのか?



だから俺は怒りのあまり、こう言ったのだ。










「オレは貴方だから信じます。」

「貴方が正しいと信じます。」

「お前は確かにそう言ったぞ、エステバン。お前は確かに、”あの時”そう言った。」

「違うか、エステバンっ!?」














俺は服従せざるを得なかった。

そしてエステバンは、自らの正義の在り処をマルチェロ団長に委ねた。


形は違えど、俺はお前に糾弾される謂われはないっ!!





俺は怒りのあまり、そう叫びたかった。















「はは、ははははは…」

エステバンは突然笑い出した。





「確かにな…確かになァ、トマーゾ。オレは確かにそう言ったよ…よく覚えてんなァ、トマーゾ…」





彼の顔は、無残にひきつったかのような笑みを湛えていた。





「はは…はははははははは…オレは確かにそう言った…ははははははははははははははははははははははははははははははは…」



俺は、どうしていいのか判断できずに、ただエステバンが笑い続けるのを見守るしかなかった。






















ひとしきり笑った後、エステバンは立ち上がると、川の方へと向かった。

身投げでもするんじゃないか、心配になった俺は、すくさま彼の後を追った。



彼は川べりまで歩むと、手にした、ソフィーの形見であるはずの首飾りを、ためらいもなく川に投げ込んだ。





「おい、エステバンっ!?それはお前の…」

「魔女の持ち物は、川へ流すのが決まりなんだろ?」



俺は耳を疑った。

団長に斬り殺されても、彼女の無実を言い放とうとしたのに。










「ソフィーは魔女だ。」

エステバンは、はっきりとそう言った。





「どうして、そう…」

「理由?“マルチェロ団長がそう言ったから”だ。他に理由なんて要るかよ。」










その時、エステバンは発狂した

そう言うのは容易い。



けれど、エステバンにはそうする以外、どうやって精神の均衡を保つ術があったというのだろう。














それから、彼は俺を見ても全く反応を示さなくなった。



そう、まるで、まったく見も知らぬ人間を見るかのように。



もちろん、今も、通り過ぎる彼は、俺なんて路傍の石ころ程度にすら感じられないのだろう。





















聖堂騎士たちの入場は済み、それからは続々と招待された者たちが、俺が入ることを許されない大神殿に入ってゆく。

俺はただそれを見守る。



俺が見上げられるのは、はるかに聳え立つ、美しい女神像だけ。

マルチェロ団長の姿は見えない、他の団員達の姿も見えない、もちろん、エステバンの姿も見えない。





次に彼らの姿を見るときは、俺に死を宣告する時かもしれない。











いと高き女神よ、貴女のいらっしゃる高みからは、俺のような人の子の悩みはあまりに小さいのかもしれません。


ですが女神よ、貴女への永遠の忠誠を誓った、貴女の下僕の哀れな訴えを、わずかなりともお耳にお入れください。










自分はどうすれば良かったのですかっ!?











マルチェロが法王を弑逆した時点で、彼の非を鳴らし、その刃で切り刻まれれば良かったのですか!?

マルチェロの命令に背いて、あの哀れな女性を助け、地の果てまで逃れれば良かったのですか!?

それとも、わが友エステバンの嘆きを見、共に涙枯れるまで泣けば良かったのですか!?










怯惰な自分には、すべての行動をとる勇気がなかったのです。



遅すぎるっ!!

なんにせよ、全てが自分には遅いのですっ!!

愚かな自分には、そのことに気付くのも遅すぎるのですっ!!










俺は、身もだえして泣き喚きたかった。

身もだえして泣き喚けば、全てが許される頑是ない子供になりたかった。



そして思い出した。

俺には、身もだえして泣き喚いて、そうして自分を受け入れてくれる人も場所もなかったという事を。










大柄で年上の女性に抱きしめられたいという願望を、世の男は皆持つという。

それは、母の胸に抱かれた記憶がそうさせるのだと言う。

女神に仕えると誓った俺も、きっと女神にそうしたかったのだろう。



けれど、美しく慈悲深い女神は、ただ厳然と俺の上に聳え立つだけだ。










俺は、涙の浮かんだ顔を隠すように、俯いた。

もう、法王即位式の、マルチェロ団長の演説が始まる頃だろう。









俺の目の前を、銀色の長い髪が通り過ぎた。

ゆるゆると頭を起こせば、そこには見覚えのある赤い聖堂騎士の制服。





呼び止め、拘束すべきだとは分かっていた。

けれど俺は、その赤い聖堂騎士の制服をまとった男の、強く真っ直ぐな背中に押されて、声すらかけることが出来なかった。












「行くよ。」

黒髪に赤いバンダナをした青年が、かけた声に、


「ああエイタス、行くぜ。」

大きくはないが、恐ろしく力強い返答が返された。
















大神殿の扉が開けられ、マルチェロ団長の声が、俺の心臓を打った。







2008/5/26




一言要約「可哀相なトマーゾ」
もう一言要約「アドルフ・アイヒマン」

アドルフ・アイヒマン はナイスのユダヤ人虐殺に一番大きな役割を果たした人物です。彼は異常な殺人者などではなく一言で言うと官僚だったので、ユダヤ人虐殺についても、

「大変遺憾に思う」

と述べたものの、自身の行為については

「命令に従っただけ。」

と裁判において発言しています。


で、思うのです。中世ヨーロッパの修道士請願においては、貞潔と清貧と「従順」を誓います。で、ウチの聖堂騎士たちもコレを誓っているのですが、当の命令者が明らかにおかしい命令を下した場合、彼らはどうするのが正しいんでしょうね?しかも、命令違反が即、自分の命に関わるような場合には。
別にアドルフアイヒマンを弁護する気はさらさらないですが、ちょっとトマーゾとカブったので、書いてみました。

エステバンにとっては、とりあえず自分の身近な人に関わる以外は、“正義”なんてどうでも良かったのでしょうが、トマーゾはもう少し広い範囲で“正義”を考えてしまった(そもそも彼にとってソフィーは、赤の他人ですからね。)
エステバンがトマーゾの立場なら、ソフィーを焼いても、特に良心の痛みは感じなかったでしょうけれど。

ともかく、エストマニア(エストマ好きーのこと)には、大変申し訳ない展開になってしまったのですが、でも最初からこの二人はこうすることに決めてたんですよね。マルチェロに従うことで出会うことができ、親友になったけれど、結局、マルチェロに対する考え方が違ったことで決別してしまうという…
ああ、なんか書いててすごく切なくなってきた。

拙サイトのククールは、旅をして強くなるし、主人公はそもそも強い人なので、人の弱さを書こうとしたら、マルチェロ当人か、でなかったらオリキャラと対比させることになってしまいました。
以上、かなりまとまりのないあとがきですいません。



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