怯惰




法王暗殺という「暴挙」に出た直後のマルチェロと、その部下たちの様子。






















流れる血など、聖堂騎士としては見飽きたものだった。

それが、上質な絨毯の上で流されているものであったしても、今更驚くほどの事ではない。

それが、いとやんごとない身分の人の血であることも、そう経験のない事ではない。



ただ、今、俺の眼前に流れる血は、確かに、法王の衣をまとった人から流れ出し、絨毯に染み込んでいた。








「…」

俺は、声も出せなかった。


そしてそれは、他の聖堂騎士たちも同様だった。






俺の目は、縋るようにマルチェロ団長に向かう。


理性が起こした行動ではない。

咄嗟の行動だ。



そうして俺の瞳が縋ったその人は、血を流す、おそらくはもう魂無き躯を傲然と見下ろしていた。












「諸君をここへ招き入れたのは他でもない。」

手にした禍々しい杖を軽くつき、団長は我等をいつものように見回した。



慣れた光景だ。

その人の足もとに、造作なく転がるのが、法王ベネディクトゥス六世でさえなければ。






「諸君に一つ、私から質問があるのだよ。答えてくれるかね。」


その問いに、誰も返答を返そうとはしない。

辺りはあまりに静まり返り、俺は同僚の心音すら聞きとれた。



「諸君が御覧の通り、法王ベネディクトゥス六世聖下は御万歳あられた。」

そして、法王に対する尊崇の念も、それどころか、死人にたいする敬意のかけらすらない手つきで、法王の躯を


ごろり

と転がした。






血の気の失せた、老人の顔。

間違いなく、つい先刻は生きて、万人からの崇拝を受けていた、その人の顔だった。






「法王聖下は確かに御病弱であられたが、さすがに一朝一夕に御命が失せ給うほどではなかった。」


さて

と、団長は我々を見回す。



「何故に、聖下はこのような御姿に成り果て給うたと思うかね。」











団長の手にする杖。

暗黒神の力が封ぜられているという噂もある禍々しい杖の先端には、隠しようもない血の痕。


そして、この部屋にあったのは、法王と団長だけ。


そしてこの日、我等聖堂騎士は、この法王の私室の警護を命ぜられていた。



何人たりとも、如何な用件であろうとも通すな

という、団長の厳命の元に。



分厚い扉に阻まれたその部屋の中では、それすらも突き破るような声が時折聞こえ、そして、静まった。



そして、今…











皆、思うところは一つに違いない。

「誰が殺したか」

という問いに対する答えは、あまりに分かり切っている。


だが、だからこそ誰も答えられない。






団長が、薄く笑った。


「失敬、答えづらい質問で悪かったな。では、問いを変えよう。」



団長の翡翠色の瞳が、獲物を見据えるような色に変わった。











「諸君は、もう一度、私に忠誠を誓えるかね。」






我等聖堂騎士は、マイエラ修道院と修道院長に仕える女神の剣。

であるからには、如何なる事があろうとも、現マイエラ修道院長たるマルチェロ団長には従うべきだ。



如何なる…?



修道院長たるこの人が、女神の代理人たる法王を弑逆しても?











俺は“女神の剣”



女神に背く者を斬るのが、この剣のはずでは?












「誓いますっ!!」

静寂を切裂くように、声が響いた。



「聖堂騎士アントニオ、マルチェロ団長に、忠誠を誓います。」



アントニオは、眉の上で丁寧に切りそろえられた、光砂色の髪をさらりとなびかせ、恍惚とした口調で続けた。



「マイエラ修道院長にして、聖堂騎士団長マルチェロ、貴方の御名にかけて!!私の名誉と、私の命と、私の剣にかけて。私は貴方に忠誠を誓います。私の望みを叶えてくださる筈の貴方に、混じりけの無い忠誠を誓います…女神の名の元に行われる、あらゆる偽善と虚飾を撃ち滅ぼす方に、世界をも滅ぼしつくす方に、私は全てを捧げますっ!!」



恐るべき背徳の誓いだった。

なのに、団長は笑ってその誓いを受け入れた。






「小官も、誓うであります。」

続いて口を開いたのは、小柄な聖堂騎士のカルロだった。



「小官が賛同したのは、この老人ではなく貴方でありますから。貴方が仰るのなら、それは女神の代理人に過ぎない老人の言葉よりも信じられるでありますよ。」

アントニオほど恍惚した物言いではなく、むしろ淡々とした言い草だったが、こんな異常事態を前にしてのその淡白さは、むしろ狂気を俺に感じさせた。



俺は、わずかばかり縋るように、隣に立つ男に目をやる。

俺が、同僚の中で一番信頼する彼は…






「聖堂騎士エステバン、マルチェロ団長に忠誠を誓います。」

あっさりと進み出た。



「ほう、嬉しいな、エステバン。」

その言葉に、パルミド出の聖堂騎士エステバンは、褒められた子供のように嬉しそうな表情を見せた。



「オレは元々、女神なんざ信じちゃいなかった。オレが聖堂騎士になったのは、貴方がいたからです、マルチェロ団長。オレは貴方だから信じます。貴方が正しいと信じます。」

子どものような純粋な信頼に満ちた瞳に、俺は動揺する。

彼の判断に、俺は心から動揺する。











マルチェロ団長を信じる。

それはいい。

俺だって信じている。

この人の剣の腕も、頭の良さも、判断力も。


この人がサヴェッラでのし上がろうと決心して、そして行ってきた数々の悪行も、俺は全肯定は出来ないものの、目的の為と納得は出来る。



そのくらい、信じている。



けれど、今、彼が為した事は、法王の弑逆だぞ?


この人は、目的…サヴェッラでのし上がるというその目的を、本当に行きつく所まで延ばしてしまったのだ。



サヴェッラで尤も高みにある人を、引きずり落とすというところまで。



そして、一個の人の子としては、病気がちな老人でしかない人を、無残にも突き殺した…











そんな人間を、どうしてみんな、こんなにあっさりと肯定し、忠誠を誓えるんだ!?











立ち尽くす俺の横で、グリエルモの野太い声が忠誠を誓う。

興奮の余り、髪のない頭皮に血管すら浮かぶのをぼんやりと眺めていた俺は、その直後、鋭い視線を射すくめられた。











「後は貴官だけだぞ、聖堂騎士副団長トマーゾ。」

気付けば、俺以外の騎士たちは皆、団長に、法王を弑逆した団長に忠誠を誓い、そして俺の様子をじっと窺っていた。






俺の背中を、冷汗が幾筋も滑り落ちた。



忠誠を誓ってはならない。

俺の良心はそう叫ぶ。



マルチェロ団長は、踏みこんではならない所にまで足を踏み入れてしまったのだ。

俺は女神の僕として、この人を止めねばならない。



そう、例え…











団長の手が、かすかに剣の柄に延びた気がした。

団長の翡翠色の視線は、俺をひたすら射竦める。



分かっている。

ここまで団長が明かした以上、彼に忠誠を誓わなければ、間違いなくこの場で口を塞がれる事になると。

何せ、俺以外の騎士たちは皆、団長に忠誠を誓ったのだ。

俺が何か一言でも非難がましい事を口にすれば、俺は間違いなく、この場で鱠に刻まれる。



だが

それでも俺は、俺の魂の為に、この人を止めるべきでは?

正義の為には肉体の死を恐れてはならぬと、俺は誓ったではないか。

俺は聖堂騎士だ。

聖堂騎士は、悪に加担してはならない。






他の騎士たちの視線が、険しくなった、気がした。


付き合いの長い者も、それほど長くない者もいるが、同じ訓練をし、食事をし、苦難を共にし、笑い合った仲だ。



それでもやはり、団長の命があれば、彼らは俺を鱠に刻むだろう。











「…トマーゾ?」

呟くような、しかしその小さな声に満身の気遣いを込めて、俺の名が呼ばれた。



顔を上げずとも、誰の声か分かっている。

普段はあれだけ傍若無人のくせに、母親を心配する子供のような声を出すんだ、あいつは。



あいつも、団長が斬れと命じたら、俺を斬るか?



斬るだろうな

「オレは貴方だから信じます。貴方が正しいと信じます」

そう誓った奴だから。



けれど、俺はあいつには斬られたくない。

他の誰に切り刻まれても、あいつには。











「聖堂騎士副団長トマーゾ。」

最後通牒のように、発される俺の名。


俺は返答せねばならない。

俺は選択せねばならない。



怯惰な生か、信念ある残忍な死かを。











微かな鞘走りの音が、耳に聞こえた気がした。



「聖堂騎士副団長トマーゾ…」

「誓いますっ!!」



俺の声は、俺が思ったより、遙かに大きく響いた。



「聖堂騎士副団長トマーゾ、マルチェロ騎士団長に忠誠を…」

無様なくらい跪いて、そして俺は彼を見上げた。



彼は悠然と、そして王者のように傲然と、そして憐憫の情すら浮かべた瞳で俺を、その翡翠色の瞳で俺を睥睨した。






「私に忠誠を誓うか、それは重畳至極…」

俺にはその言葉が、嘲笑にしか聞こえなかった。











法王の躯の後始末が、滞りなく指示され始めたようだっても、俺の耳には意味のある言葉としては聞き取れていなかった。



「トマーゾ、いつまで跪いてんだよ、もう起きろよ。」

為されるがままに引き起こされると、嬉しそうな瞳が俺を見上げていた。



「忙しくなるぜ、なァ?へへ、しっかし、これでマルチェロ団長も法王サマかよ。すげェな、さすがオレの見込んだお人だ。」

俺はあいまいに頷いた。

俺に他に何が出来たと言うのだろう。



他の人間は、彼を信じて、忠誠を捧げたのだ。

彼の為した事が、為さんとする事が悪であっても、それでも彼を信じたのだ。



俺は一体どうだ?











俺が忠誠の言葉を口にしたのは、ただ、自らの怯惰の心が故に過ぎないではないか。








2008/3/19




一言要約「可哀想なトマーゾ」

とりあえず、トマーゾの出てくる話は全てこれで要約になってしまうのが、本当に可哀そうだね、トマーゾ。
ちなみに、騎士たちに忠誠を誓わせたと言っても、さすがに全員に誓わせた訳ではなく、幹部クラス限定だと思いますよ。でも、幾人かには事実を明かさないと、さすがに法王の死体の始末以降、一人じゃ大変だっただろう…と思って書いてみたお話です。

トマーゾは自分のことを「怯惰」と言っていますが、こんな状況に追い込まれたら、誰だって心にもないこと言うよな。
でも、だとしたら、嬉々として忠誠誓ってる、他の人らは一体…

それだけマルチェロが魅力的なんだと、そういう事にしておきましょう。


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