吟遊詩人の冬歌
元拍手話。
三角谷を出るチェルスと、ラジュさんの話。
さく さく ラジュは語る。 「ちぇるす、ミンナガ話アルト言ッテル。」 ラジュとギガンテスがクーパスに命助けられ、そしてこの理想郷たる三角谷を築いてから、長い年月が経った。
さく
さく
少年が駆ける雪の上。
女は歌う雪の上。
さくり
さくり
雪を踏む音が一つ加わり、女の歌もまた変わった。
「やっぱりここにいたんですね。」
優しい声の青年は、女に話しかけた。
振り向いた女の髪の色は桃色。
人には有得ぬその色の髪から覗くのは、人には有得ぬ尖った耳。
「チェルス、もう準備は終わったのですか?」
鈴の振るような声。
人には珍しいほどのその美声も、女の種族を知れば納得できる。
女は、エルフだった。
「ええ、ラジュさん、ぼくはいつでも出発出来ますよ。」
女をラジュと呼んだ青年は、冬の雪よりなお純白な心を写す澄んだ瞳をしていた。
そして、それはラジュの心に、冬の空よりなお暗い予感を芽生えさせずにはいられなかった。
「ねえ、チェルス。もう少し後にする訳にはいきませんか。」
孫を諭す祖母のように、奇妙な甘さを持つ言葉だった。
「もう、ぼくは大分と延ばしてしまいましたよ、ラジュさん。」
対して返されたのは、優しくも毅然とした言葉だった。
「だってぼく、もう教会のミニデーモンにからかわれるのは嫌ですよ。だって最近毎日言われるんですよ。
『ヘイヘイ、チェルス。出て行く出て行くって、一体いつ、三角谷を出て行くんだよ、この野郎。いい加減にしないと年が明けちまうぞ、この弱虫め』
って。」
「…」
ラジュは、口の悪いのは今更と知りつつ、ミニデーモンに微かな怒りすら感じるのだった。
さく
ラジュはチェルスの言葉を聞かなかったように、雪の上を軽やかに歩いた。
雪が、彼女の体を受けて立てる音を伴奏に、ラジュは歌う。
彼女たちのいる三角谷の素晴らしい四季を歌う。
秋の季節まで歌うと、ラジュは足音と歌を止め、チェルスに呼びかける。
「ねえチェルス、どう?」
「はい、ラジュさん、とてもいい歌です。生まれてからずっと聞いているけど、毎回毎回、歌の調子も歌詞も少しずつ違うけど、でもいつもとてもきれいな歌です。」
「自然の立てる音は、一つとして同じ時はありません。雪も毎年違います。そして、雪を踏むわたしも、毎年同じではありません。」
「はい、ラジュさんはいつも自然の立てる音を伴奏に歌っていますからね。今年の雪は、なんだか哀しい音を立てていますね。」
ラジュは、そっとため息をつく。
「どうしてため息をつくんですか、ラジュさん。ぼく、何か変なことをいいました?」
「自然の立てる音を歌の伴奏に出来るのは、わたしたちエルフが自然と親しんでいるから。でもチェルス、“普通は”あなたのような人間は、自然の立てる音が分からないものなのです。」
「そうなんですか?」
チェルスは、心から不思議そうに問い返した。
「チェルス、あなたはとても心のきれいな人。そして三角谷は、あなたのような人と、わたしのようなエルフと、そして魔物ですら平和に共存する、理想の地。あなたの心はこの谷には相応しくても、でも…」
ラジュは言いさして、そして、チェルスの瞳をじっと見つめた。
風が、雪の上を優しく吹き抜ける。
ラジュはその風の音を伴奏に、冬の季節を歌った。
チェルスは、そっと目を閉じて、それを聞いた。
風が止むと、彼女の歌も終わった。
「ね、チェルス。この三角谷は理想の地。七賢者の一人、クーパス様がお作りになられた平和な地です。春には花が、夏には緑が、秋には紅葉が、そして冬には優しい雪がある、とても美しい地。ねえチェルス、ずっとここにいては、どうしていけないのですか?」
チェルスは、哀しそうに目を瞬かせた。
ラジュはチェルスのその顔を見たくはなかったので、そっと目を伏せた。
重い足音が雪を踏みしだく。
ラジュはその音に合わせ、小さく歌う。
足音は近づき、小さく歌うラジュと、戸惑うように立ち尽くすチェルスを見て、そして太く重く低く、だが優しい声で話しかけた。
チェルスは頷くと、
「じゃ、ラジュさん、約束ですよ。明日こそ行きますからね、ぼく。」
そう言って、雪をさくりさくりと踏み分けて去っていった。
その音に合わせて歌うことはせず、ラジュはその雪の音に耳を澄ませた。
「らじゅ、モウ…」
「ねえギガンテス、わたし、やはり老いたようですね。」
ラジュはその、人間ならば乙女でしかない横顔に、老婆のような諦観を浮かべた。
「くーぱす様ガ死ンデカラ…」
「そうですね、もうどれだけの月日が過ぎたことか。命短き人の世では、もはやあの方のことは伝説になるくらいの年月が経ちましたからね。」
「…ナラ、おれモダ。」
ギガンテスは、大きな一つきりの瞳を瞬きさせた。
「おれハ魔物ダケド、ソレデモ年取ルクライ、生キテキタカラ…」
賢者クーパスが、その力を譲り渡し、命短きただの人の子としてこの谷で命を終えてから、彼女たちはクーパスの子孫をずっと見守ってきた。
不老不死たるエルフのラジュも、そして魔物の中でも長命な巨人族であるギガンテスは、その長い長い命を、賢者の子孫を見守ることに費やしてきたのである。
「我が子孫たちに、賢者の子孫であるということを語ってはならない。我が子から、我が孫へ、そしてその子へ…その言い伝えが途切れたら、そのままにしておいてくれ。」
そのクーパスの言葉を、守りながら。
クーパスの子孫たちは、山深く平和なこの谷で、邪悪というものに少しも触れることなく、静かに生きてきた。
美しく穏やかな理想郷、三角谷。
子孫たちは、谷に抱かれ、一生涯、この谷から出ようと思わず、ただ、静かに死んでいった。
「ラジュさん、ぼく、外の世界に行こうと…いや、行かなければならないと思うんです。」
チェルスが、そう、言い出すまでは。
ラジュもギガンテスも知っていた。
賢者クーパスが、その呪術の力を譲り渡す前に、その譲り渡した者の子孫と己が子孫が“事ある時には”感応しあうようにまじないをかけたことを。
だから、チェルスの言葉は、その“事ある時”が訪れたことを意味することを。
だからギガンテスは、首を縦に振った。
けれどラジュは、言を左右にして、なかなかそれを認めようとはしなかった。
だが、いつもは素直なチェルスが、頑として、ラジュの説得を受け入れようとはしなかった。
それは、まじないの力であったのか、それ以外の何かがあったのか、それは分からない。
けれど
「おそらく、孫を気遣う祖母というのは、わたしの今のような気持ちを持つものなのでしょうね。」
恐らく見た目だけではチェルスと年の変わらないように見えるラジュは、そう言った。
「わたしはチェルスに、僅かばかりも危険に近づいて欲しくはないのです。人の世界は、沢山の悪事も、沢山の危険も蠢いています。あんなところに、自然の音も聞こえるような純真な心を持つチェルスをやりたくはないのです。」
ラジュは、ギガンテスの巨躯を見上げた。
「やはり、過保護なのでしょうか、ね、ギガンテス。」
ギガンテスは、大きく頷いた。
「何かが起ころうとしているのでしょう…」
ラジュは言う。
「おれニハ分カラナイ。」
「わたしにもまだ良く分かりません。空も、山も、大地も、そして風も、いつもと同じ音を静かに立てているだけですから。けれど…」
「ケレド?」
「チェルスが雪を踏む音が、とても哀しい音を立てるのです。だから、あの音を伴奏に歌うと、とても哀しい音になってしまうのです。」
バーサーカーが、陽気に近付いてきた。
その軽やかな足取りが雪に立てる足音も、ラジュの歌には伴奏になる。
それはいつもとても陽気な歌になるはずなのに、ギガンテスの耳が聞いた歌は…
「本当にここまででいいのですか?」
ルーラでチェルスと下の世界まで飛んだ後、ラジュは問うた。
「ええ、うわあ、下の世界だ。すごい、あの遠くに見える街は、なんだか細長い建物の上に建ってますね。」
チェルスは、生まれて初めて見る光景に興奮し、ラジュの危惧には気付かないようだった。
「チェルス、あれは橋です。」
「すごいですね、下の世界にはあんなに大きな橋があるのですか?一体誰が作ったんだろう。あの街の人たちでしょうか?本当にすごいですね。」
「ねえチェルス…」
「あ、ここでこうしている場合じゃないですね。はやく行かないと、年が明けてしまいます。ねえ、ラジュさん。あの街の人たちも、新年にはなにかお祝いをしているんでしょうか?楽しみだなあ、下の世界の人たちは、どんなお祝いをするんだろう。」
ラジュは、にっこりと微笑んだ。
「楽しみですね、チェルス。」
対してチェルスは、体を折らんばかりに頭を下げた。
「本当に今までお世話になりました。」
そして顔を上げると、にこりと微笑んだ。
「きっとここには、素晴らしい出会いが待っていると思うんです。だから、今はさようなら、ラジュさん。ぼく、下の世界で一生懸命がんばりますね、谷のみんなをよろしく。」
チェルスは、一度もラジュを振り向かなかった。
ラジュにはなんとなく分かっていた。
あの橋の上の街、リブルアーチには、恐らく、呪術師の子孫が住んでいるのだろう。
そしてチェルスとその人物は、お互いに感応しあっているのだろう。
だからチェルスは、惹かれるようにあの街に行くのだろう。
「どうかその方が、チェルスにとって良い方でありますように。」
ラジュは、三角谷とは違い、切るように冷たい風の中、足を運ぶチェルスのその音を聞き、そして我知らず、それを伴奏に歌いだしていた。
チェルスの雪を踏むその足音は、ラジュの祈りとは裏腹に、その歌を哀しい別れの歌にするのだった。
「そんな哀しい足音を、わたしの歌の伴奏にしないで…」
聞こえなくなった足音の代わりに、ラジュの歌の伴奏となった冷たい音を立てる風は、ラジュの涙を無慈悲に吹き飛ばした。
終
2008/1/31