七百六十八億の無謬

七百六十八億の無謬




五十六億七千万の叫喚 の続き。兄貴はいつグランドクロスを使えるようになったか考えてみた。






















「オディロ院長、この世にはグランドクロスという呪文があるのですね。」

私が問うと、オディロ院長は微笑んで仰った。


「おお、マルチェロは本当にいろんなことをよく知っておるのう。そうじゃよ、ただ、呪文というより、女神の起こし給うた奇跡のようなものじゃがな。」

「ではその奇跡は、どのようなものなのですか?」

「聞きたいかね。」

オディロ院長は、お忙しかっただろうに、幼い私の問いに、ゆっくりと噛んで含めるようにお答くださる。


「女神に祈りを捧げるとだね、天空から女神のお裁きが十字の形となって、邪悪を切り裂くのだよ。その威力は、どんな凶悪な魔物でも一瞬で切り裂けるほどだと言うよ。もっとも、ワシはこの目で見たことはないのだけれどね。」

「オディロ院長は聖者でいらっしゃるのに、お使いになれないのですか?」

「マルチェロや、ワシは聖者ではないし…よしんば、ワシが聖者であったとしても、いや、わが友の法王であっても、この“奇跡”は使えないだろうね。」

「どうしてですか?」

「グランドクロスを使えるのは、パラディン…聖騎士だけだからじゃよ。この修道院の聖堂騎士のような者たちが、心身を極限まで鍛え、そして女神の御心に沿って正しく生き、正義のために心から祈った時こそ、女神はお力をお貸しくださる…のだろうね。もっとも、聖堂騎士団長といえど、その奇跡を起こせた人物は、過去にほんの片手で数えられるほどしかいなかったというけれどのう。」

私はその言葉を聞き、目を輝かせて院長に申し上げたものだった。




「オディロ院長、なら、僕が使えるようになりますっ!!聖堂騎士になって、聖堂騎士団長になって、そしてすべての邪悪を打ち払えるようになりますっ!!」


院長は、その優しい眼で私を見、そして仰った。




「そうかねそうかね、マルチェロや。お前の力がそうなることを、そして弱きものを助けるために奇跡を起こせるようになることを、待ち望んでいるよ。」


院長は私の頭をなで、そして続けておっしゃった。





「ワシの愛し子、マルチェロや。」













私の放ったかまいたちは、正確に的を切り裂いた。

「さすがでございます、マルチェロ団長。」

そういうアントニオに、私は聞く。


「法王即位式の準備は順調か?」

「ええ、もちろんです。各国にも招待状を送り、新法王の即位式への列席を要請しました。」

「各国の王族たちは何と言ってきた?」

「アスカンタ王パヴァンからは、王妃の喪が明けたばかりで国政落ち着かぬが故との辞退が、そしてサザンビーク王クラビウスからは、体調すぐれぬ上、嫡子チャゴスは若年につき代理を務めかねるとの辞退がございました。」

アントニオの返答は、予想通りのものだった。



「予想通りだ。“尊い血”の奴らめ、“一介の庶子”の法王即位式などに出てたまるかということか。」

「様子見ということでしょう。逆にいえば、様子など見ていられぬ状況に追い込めばよろしいのです。」

アントニオはさらりと言い捨てたが、なかなか物騒な含みを持った言葉だった。



「ふふ、アントニオ。私にアスカンタやサザンビークにでも出兵せよとでも言うのかね?」

「まことに失礼ながら、団長の今の訓練は、その為のものと拝察しておりますが?」

アントニオは、笑顔のままさらりと返してきた。




ははははは

どちらともなく、笑う。





「お前は本当に、女神をも恐れん男だな。“神に国の統治をまかされた”“尊い血の王”を殺せと唆すとは。」

「団長にそう言っていただけるとは恐縮です。なにせ貴方は“神をもしのぐお力をお持ち”ですから。」


アントニオは、私の手にした“杖”に


ちらり

と目をやった。




「その力の源が、善であれ、悪であれ、マルチェロ団長、貴方はそれを制する事が出来る方ですから。そして、制し得た力は力、全てを支配するに足り、そして…」




アントニオは、瞳に不穏な色を宿して言い放った。




「その力は、貴方を正義とするに十分足りるのです。」


アントニオは、そこまで好き放題言い放つと、一礼して立ち去った。











「ふふん、“正義”か。」

私は、再び書物を開き、内容を吟味し、それに間違いがないことを確認して、慎重に十字を切る。






「グランドクロス。」

だが、裏腹に私のその手からは、薄絹をすら切り裂き得ない貧弱なものしか放たれなかった。




「…」

私は苛立ちのあまり、手にした書物を投げ捨てかけたが、思い直す。


再び書物の文字に目を通すが、私が間違って解釈を行っているものは、何も見つからなかった。











私は研究を行い、グランドクロスは真空系に属する呪文の最上位のものに過ぎないという結論を得ていた。


古人が、奇跡だなんだと能書きをつける代物は、そのほとんどがただの呪文か、さもなければペテンに過ぎない。

そうでなければ、邪悪な魔物が“小さな奇跡”ホイミを使える訳がない。



もっとも、私と回復呪文はよほど相性が悪いらしく、ベホイミの習得に留まってはいるが、なに、回復の必要もない圧倒的な力で先に叩き伏せれば済むことだ。




「なのに、何故、グランドクロスが使えんっ!!」

発動の際に十字を切るのは、ただの発動のきっかけに過ぎない。

そこに信仰心が伴う必要などなかろう。


私がはかまいたちを使いこなせる以上、グランドクロスを使えない訳がないのだ。






天空から女神のお裁きが十字の形となって、邪悪を切り裂くのだよ。




オディロ院長は確かにそう仰った。

だが、ドルマゲスの来襲の際に、女神の裁きの十字は奴を切り裂いたか!?

否、邪悪な杖が…この杖がっ!!逆にオディロ院長の正義と慈愛の詰まった心の臓を突き通したではないか!?









力には、善も悪もない。

あの時、ドルマゲスには力があったが、私には力はなかった。


だから私は院長をお助けすることができなかった。

だから、私は力を得ねばならない。












我が暗黒に身を委ねよ




ぞく

私の脳裏に直接、声が響く。




地獄の雷が良いか?はたまた心の臓を凍りつかす死の言葉が良いか?我にその意識を委ねれば、すべての力を汝は用いること叶う…



私の脳裏に、私に逆らう地を焦土と化す地獄の雷の威力が、私に刃向う者の心臓を一瞬で凍りつかす死の言葉の威力が、甘い誘惑を伴って浮かぶ。




誘惑されてしまえ

私の脳裏に、そんなささやきが忍び込む。










「痴れ事をっ!!貴様などに屈する私ではないわっ!!」




私は大声を張り上げた。





十字を切ることも叶わぬくせに、片意地を張る…

声が、嘲笑った。





自らの行動に自信が持てぬくせに

「なに!?」

自らが正義と思うなら、その心の通り、女神を屈服させれば良いのだ。その“正義”を以って、その“祈り”を以って、女神からその“裁き”を“奪い取れ”ば良いのだ。それすら出来ぬ貴様は、自らすら信じられぬ臆病者よ。

「なんだと…?」

“無謬者”たる法王にならんとする男よ、だが貴様は、“悪魔の子”そもそも存在自体が謬りなのだ。正義などと信じられるはずがないわな。






私は奥歯を


ぎりり

と噛み、暗黒神の声に抗う。




屈服させられそうだ。






私はそれに抗うために、精神を集中させ、再びグランドクロスを放とうと試みる。







今度は、真空の刃のかけらすら出なかった。











そうれ、謬ちある者よ、貴様は謬っているのだ。我を崇めよ、我に従え、我に身を委ねよ、我は何でも受け入れるぞ?







間違っている?

私が!?




違う、私は謬ってなどいない。




領主の庶子として生まれたことは私の罪ではない。

私は自ら研鑽し、聖堂騎士となり、聖堂騎士団長となったのだ。

そのためにいくばくかの悪事を為したかも知れんが、聖堂騎士団長として、マイエラ修道院を立て直す為だった。




オディロ院長の仇を討つためにククールを行方の知れぬ旅に出したことの何が謬っている?

人を殺し、賄賂を使い、この身をすら投げ出したことは、腐ったサヴェッラでのし上がるために必要なことだった。




ククールを煉獄島に堕としたこと?




「知るものか、あんな都合の良い時にあんな場に出くわす方が悪いっ!!」









私はそう叫びながら、どうしても脳裏に浮かぶ院長の優しいが哀しげな顔を振り払う事ができなかった。






オディロ院長が、今の私を御覧になったら?




「オディロ院長、私は…」











私そこで人の気配を感じて振り向いた。















「…エステバン…」

そこに立っていたのは、衣服を乱し、憔悴し面窶れしたパルミド出の男だった。



つい先日、私が焼いた女のことで、私に反逆せんとした男。




「聖堂騎士エステバン、貴官の身は、聖堂騎士副団長トマーゾに預けおいたはずだがな。」

「マルチェロ団長、あんたが焼いたソフィーって女は、オレのパルミドでの古馴染みだった。」


私は男の言葉に、男が剣を佩いていることを確認した。



私を殺しに来たのか。

だとしても、この間合いならば油断さえしなければ致命傷を受けはしない。

たとえ剣を抜いたとしても、返す刃で切り伏せるだけのことだ。




「ほう、パルミドの女が、魔術を以ってドーリアの情婦にまで成り上がったのか。で、それがどうした?それとも何かね、貴官も女の魔術で誑かされたのかね?」

私は言葉を返しながら、わずかばかりも男の挙措から目を逸らしはしなかった。



確かにこの男は役に立った。

悪徳の街パルミドの出という経歴と技能を生かし、他の聖堂騎士たちではとてもこなせないような任務を達成してきた。



だが、私に背くというのならば容赦はしない。




「ソフィーは、魔術なんて高等なモンを使いこなせるような女じゃねェ。脳みそに行く栄養がチチに行ってるような、アタマスカスカの女だったからな。」

男の言葉に、私はゆっくりと剣に手を伸ばす。

この手の台詞は、終わると同時に剣が抜かれると決まっているのだ。

そう、決して敵わぬと知っていたとしても、感情とは、特に下らん恋情は、人の判断力を狂わす。




「マルチェロ団長、でもアンタはソフィーを魔女だと言った。そうだよな?」

「ああ、確かにそう言った。それがどうした?」







「なら、ソフィーは魔女なんだろうさ。」









私は、思いがけないその言葉に、わずかばかり思考が停止した。

そして、ようやく思いを巡らすと、ゆっくりと、エステバンと瞳を合わせた。





「マルチェロ団長、あんたが言うなら、ソフィーは魔女だったんだ。」

エステバンの瞳には、敵意も憎しみもなかった






「なァ団長、オレはパルミドで、自分がどうしていいのかわからずに生きてたんだ。そん時にアンタが現れた。アンタは絶対的に強かった。そして、強いモンは正しいって言ったんだ。なァ団長、アンタは正しいんだ。だからオレはアンタの為ならなんでもしてきた。オレはあんたの言う“正義”を信じたんだ。アンタはオレの灯台だ。オレはアンタが照らすままに進んできた…」

エステバンの瞳は、子供のような純粋さで私に向かってきた。




「アンタの言葉だからオレは信じるっ!!アンタは言う。

『ソフィーは魔女だ』

だからオレは信じよう、魔術が使えなくても、アイツは魔女だったんだって。だからアンタに焼かれたんだって。」




エステバンの瞳は、絶対的な信頼と服従を示していた。

おそらくそれは、“盲信”というべきものだったのだろう。





どくん

私の心臓が大きく音を立てた。








マルチェロよ、お前はこの男の盲信にどう対する?










「オレはアンタだから信じるよ、アンタが正義だと信じるよ、オレ自身よりもアンタが正しいと信じるよ、なァ団長、アンタは絶対的に正しいんだ、なァ、そうなんだろうっ!!??」







ごくり

私は思わず生唾を呑んだ。





私が一体何に気おされていたのか、自分でも詳しく説明は出来ない。











ただ一つ、確かなことは、もはや私には、自らの不正義を自らに問う余裕など残されてはいないということだけだ。












「そうだ、私が正義だ。」

私は言い放ち、ゆっくりと十字を切る。










女神に私の行為を裁かせはしない。

私が正義だ。

女神は私の正義に、ただ従い、ただ力を貸せばよいのだ。











「グランドクロスっ!!!!!!」













それが、天から舞い降りた女神の力であるかどうかなど知るものか。



必要なのは事実。



十字の形をした真空の刃が、いかなる障害物をも圧倒的な力で切り裂く、ただ、その事実だけが必要なのだ。












「すげえ…」




ほとんど恍惚に近い声が、エステバンから漏れた。









それは、ほとんど神そのものの威力を目にしたかのような讃嘆の声で、私はその声に耐えがたい重さを感じた。






2008/5/25




一言要約「兄貴がグランドクロスを使うわけ」

どう考えてもベホイミよりザラキーマの方が得意で、どう考えてもグランドクロスよりジゴスパークの方が合っている兄貴が、 聖職者みたいに グランドクロスとかまいたち(どちらも真空系)を使うのか考えてみたお話。
つまり、兄貴の意地の産物だと思いたい。

そしてにゃんこは…まあ、こういう結論に達してしまったワケですよ。
彼に何が起こったかは、まあ、各自でご想像くださいまし。





九千六百億の慙愧

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